【3】ある日の撮影日記1

『叙情都市名古屋』 【木村一成写真集】

■2010年12月17日の探訪記 (写真と文:歴遊舎)

撮影をはじめて、かれこれ10ヶ月が経とうとしていた時期、今日は、名古屋市天白区の植田地区から街歩きをスタートしてみました。撮影取材では、カメラの木村一成と、地域史を研究する記者の内藤昌康、そして歴遊舎の岩月正直の3名がいつも一緒に行動します。

天白区は、昭和50年(1975)にお隣の昭和区から分区独立してできました。昭和30年代まで、この地区は、「天白ニンジン」(八事ニンジン)や、京都と並び称された「植田のタケノコ」、「暖地リンゴ」「桃」「梅」などの特産地として知られた農村地帯で、丘陵がつづく間に天白川と植田川が流れる、まことにのどかな風景が広がっていました。

そんな昔の地形を偲びながら、植田地区の高台・稲葉山に登ってみました。

山頂は公園になっているのですが、その少し下にはお寺が集まっています。門前から西を向いて風景を確かめる木村。何かピーンと来たのかな?

お寺の横にはお墓が。西を向いているのですが、谷をはさんだ対向斜面は東山丘陵で、そこにも八事霊園という5万体の墓を納める広大な墓所が広がっています。ここには46基の火葬炉をもつ日本最大規模の火葬場があり、名古屋市内唯一の火葬施設となっています。その一帯は8ヶ月前に墓参を兼ねた探訪を終えています。

墓苑と寺院の多い土地なのですが、人口増加で住宅や商業施設がその周囲を埋めていきました。また、名古屋市の東部丘陵に属するこの界隈は、さまざまな大学が密集する文教エリアでもあります。彼方の丘陵上に林立するビル群は名城大学の校舎です。こうした街の特色のなかにも、なにか惹かれるものはありまして、木村は感じる風景を何ショットか切り取っていました。つぎに稲葉山の山頂公園から北を見てみました。

冠雪した御岳が間近に見えました。名古屋市内からは、ふとした拍子にビルとビルの間から、この山が顔を覗かせてくれることがあり、手前のビルのおかげで遠近感を失くした遠景が急に近づいて見えることがあります。そんな実感を狙ってみたいものだねぇ・・・と話し合ったものです。ここからの御岳の感じをよく身体に馴染ませておき、今回の写真集では別の場所から撮影した神秘的な御岳が、蜃気楼のように現れた瞬間を掲載してあります。

さて、そこから東につづく回廊のような公園通路へ。ここから東を見たのですが、彼方に見える天白高校あたりまで、昔は美味しいタケノコを産出する竹藪と畑が広がる山地だったのですが、昭和40年代から始まった開発で、ご覧の通り住宅街に変貌しました。過去の写真があれば、今昔対比をすると面白い景観でしょう。それにしても、名古屋は空が広いです。

さて、天白区の植田地区はこのへんにして、ここから南へと車を走らせて緑区に移動しました。緑区は最後に名古屋市に編入された新しい区で、区内面積のほとんどを占める新興住宅街を擁しておりますが、旧東海道や八事道などの江戸時代の古道が区内を通っておりますから、昔ながらの街並みもいくつか残されています。今回は、緑区の南端にあたる大高エリアへ足を踏み入れました。

おや、これは何?

大高の町の中心部にある八幡社の一角で、大高学区の資料保管庫というものを見つけました。何が気になったかといいますと、ゴールデンな菊の御紋と、このコンクリート製のモダンな佇まい。おそらく戦時中の奉安庫に違いない…とわれわれは踏んだのですが、調べてみると、やはり。戦後、GHQから隠された資料が、この場所の隣にある、今の消防団の詰め所の下から出てきたので、現在ここを「資料館」と名付けて保管しているそうです。詳しくはこちら。

しかし、われわれは、埋もれた歴史を発掘して記録撮影しているわけではありません。今回のテーマは、もっと感性に属する「空気感」のようなものをとらえることです。

内藤は、むしろ、歴史的な風物の方に詳しいために、ついついこうした物件に目がいきやすいものですから、近くの橋の上で地元の方を呼びとめて、さっそく町の歴史を聞き出しています。

この橋のたもとで、今は小公園となっているところが、かつて大高町役場があった場所で、それを示す石碑の傍らに、道路元標もありました。

道端に設置してあったものを公園内に移したものですね。道路元標とは、その町の道路の起点となるポイントを示す標柱で、昔の役場の前や中心地の辻などに、ポツンと建っている姿を今でも全国各地で見かけます。交通の邪魔になると片づけられるケースが多いのですが、なぜか郷愁を誘う物件として、内藤は、この道路元標の位置確認と写真撮影を無上の喜びとしている節があります。木村はそんな内藤を微笑んで見ていました。

さて、さらに路地奥を探索してみましょう。

こうした虫籠窓をもつような古い家もあります。その一方で、レトロ・モダンな門構えの民家もあります。

細い路地の塀伝いに進み、振り返ると、また素敵な庭と建物です。

さらに奥へと進みますと、うっそうとした樹木に覆われた小高い丘に突きあたり、その樹木におおわれた急な坂を上っていきますと、突如として広い場所に出ました。

ここが大高城跡です。桶狭間の戦い、すなわち東海地方に覇権を及ぼしていた今川義元が、尾張の小軍勢にすぎなかった織田信長に討ち取られるという戦国波瀾の幕開けとなった戦いの舞台のひとつです。当時、ここは今川軍の前線基地でしたが、近くの鷲津砦に構える織田軍と向かい合って孤立化。その鷲津砦につづく丘陵を、ここから見てみましょう。

まさに目と鼻の先…こういう距離感を、昔の人は「指呼の間」と表現しました。指をさして呼べば応えることができるほど近い距離ということですね。これでは、なかなか身動きもとれなかったのでしょうが、大高城内の兵糧も尽きかけたころ、織田軍を蹴散らして援軍を寄こしたのが、当時は今川軍の配下にあった徳川家康でした。ところが、そのとき、今川本隊から寝耳に水の知らせが届きました。「今川義元が討たれた…」と。

主を失って統制がとれなくなった今川軍は敗走しますが、これを機に家康は故郷の三河・岡崎に帰って、織田信長と同盟関係を結ぶことになりました。

その桶狭間の方角を大高城跡から見はるかす内藤昌康です。

内藤は語ります。「やはり、この入り組んだ丘陵地形は、知多半島の景観ですよね。今は名古屋市緑区ですが、かつては知多郡大高町だったことが地形上からも納得できますよ。そもそも当時は、この城跡の南から西はすぐに海が迫っていましたしね…」

なるほど、こういう地形を活かしながら、戦国武将たちは、砦を築き、戦いに臨んだのでしょう。低い丘陵地がゆったりと凹凸する天白区植田界隈の景観とは、似ているようで微妙に異なります。天白区は愛知郡というグループに属していました。

木村一成は、そんな話を聞きながら、名古屋でありながら名古屋テイストではない歴史的・地理的風土を、どう表現したらいいのか、楽しく迷っているふうでもありました。そしてわれわれは、城跡の大手口ではなく搦め手口から、再び入り組んだ街並みに降りていきました。

これが、その途中の道から見下ろした景観です。かつてはここから眼下に伊勢湾が広がる風光をまぶしく見られたのでしょう。今では伊勢湾の海岸線から4キロも離れてしまい、家が密集しています。

さて、農家のつくりをした屋敷が数多くのこる町並みを抜けて、またまた細い路地を探訪していますと、不意にこんな風景に出合いました。

懐かしい佇まいの散髪屋。ポツン…と建っている感じですが、古い町並みに溶け込んでいます。入口には腰にカーテンをつけたガラス扉。その向こうには、額装の油絵がいい味を出していました。

何も、こうした年季の入った建物や歴史ある路地にしか叙情は育まれにくい・・・だなどと、決めてかかっているつもりはありません。最先端の建造物とシンクロする新しい街と人にも、切ない何かを嗅ぎ取ることもありますから。しかし、おしなべて、人の手あかのついたものや、使いこまれたもの、年月の試練を経て評価の定まったものには、不思議な安心感や落ち着きがあることは否めません。ただ、木村一成が、そこに場所の地霊(ゲニウス・ロキ)を感受するかどうかは、また別問題ですから、単に懐かしいというだけでは、写真にならないようですね。そこに不思議な深みが存在するようです。

そうこうするうち、老舗の酒蔵に行きあたります。ここは、あらゆる媒体でよく紹介される場所。「醸し人九平次」というブランドの日本酒を醸造する蔵ですが、我が国のみならずフランスでも、ライス・ワインとして高い評価を受ける純米吟醸の絶品を醸造しています。萬乗醸造・久野九平次本店です。

一応、蔵元さんのお話をうかがって、外観を撮影させていただきましたが、ここは、醸造過程をじっくり記録撮影しておきたいところです。愛知県は、伏見や灘といった酒どころではないように思われていますが、三河地方の山間部で産み出される「空(くう)」といった銘酒はもとより、数々の絶品を世に送り出す、知る人ぞ知る酒どころなのでございます。大量生産することはできませんが、ここにも「ものづくり愛知」の職人気質が、しっかりと根を張って息づいているのです。

ここ大高には、このほかに、下の写真の山盛酒造や・・・

下の写真の神の井酒造があり・・・

なんだか、酒蔵めぐりの探訪記になってきました。

おや、ここも渋い風景ですね。

ファサードだけをコンクリートとモルタルで武装した、いわゆる看板建築のこの建物。むかしは東海銀行の大高支店だったもの。玄関は封鎖されていますが、うっすらと東海銀行の文字が読めました。現在の三菱東京UFJ銀行に吸収されましたが、かつては東海地方の地銀ナンバーワンとして強い影響力を放っていました。この裏に回ってみますと・・・

なんだか、建築オタクのようになって参りましたが、大高という歴史ある町ならではの寂びた魅力とでも申しましょうか、こうした旧建造物がそのまま残存する不思議な風景を見ながら、子どもたちが育つということも、また少年少女の感受性を豊かにする、大切な素材のように思えてなりませんでした。

日の暮れきる前に、大高の町を辞去したのですが、どういう風の吹きまわしなのか、今日の最後は、瑞穂区という都心部に近い繁華街にたどりつきました。

そして、たまたま近所の名古屋市博物館で開催中であった「名古屋タイムズでふりかえる名古屋の歴史」という企画展を観ることができました。経営難から解散してしまった名古屋タイムスという夕刊紙が残してくれた、昭和20年代から撮影されてきた膨大な写真資料の重要性について、学芸員の方とお話を交わし、われわれは今、現在にも失われつつある風景のなかに、名古屋の魅力を探す試みをしている旨を伝えますと、是非に、とエールを送ってくれました。

博物館を出たときには、ずいぶん暗くなっていたのですが、博物館の界隈には、またなんともいえず、しみじみとさせてくれる路地や市場がありますので、貪欲に散歩してみました。

しだいに、光が足りなくなって、撮影も難しくなってきたのですが、木村一成は、こんな路地奥にも入り込んで、ここに暮らす人びとの、そこはかとない気配が浸みこんだ何かを、砂場から磁石で砂鉄を掬いあげるような手つきで、丹念に探しておりました。

写真集では、実は、この路地奥探訪のさらに後、完全に日も暮れきった時刻に訪れた瑞穂通三丁目市場での出会いを収録して、本日の成果となったのであります。

今日一日で800カットは撮影したでしょうか? とても興味深い風物をたくさん撮影することができましたし、数多くの方々との出会いもあったのですが、それでも99%を外さなければなりません。どれもこれも捨てがたい魅力に満ちた写真ばかりです。しかし、編集とはむごいもので、何を切るか・・・ということが作業の大半を占めてしまうものなのです。

したがって、最後まで残り、本書に掲載された写真は、それはそれは力のある、きわめて純度の高い作品なのです。

こんな探訪を1年半にわたって敢行し、名古屋市内16区をつぶさに見てまわった成果が、このたびの『叙情都市名古屋』にはぎっしりとつまっているのです。

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