【1】木村一成と叙情

『叙情都市名古屋』 【木村一成写真集】

(『叙情都市名古屋』を取材撮影中の木村一成/名古屋市中川区)

◆叙情という言葉との出会い◆      木村一成

普段、何気なく「叙情性」とか「叙情的」という表現は使っていますが、歴遊舎の編集者から、『叙情都市名古屋』というタイトルで、名古屋の風土や景観にひそむ叙情を カメラで発掘することはできないか・・・と提案されたとき、身震いするような感情を覚えたものでした。

 一般的にいえば、写真とは、光学的に見えるものしか写らないことになっています。光量が100%のとき、光しかなくなってモノは写りませんが、光量が0%では真っ暗になって、やはりモノは写りません。写真というものは、この0%~100%の間に無限に横たわる光と影の微積分であり、その陰影の一瞬を定着させる空間のストップウオッチなのです。

 ところが不思議なもので、撮影技術の巧拙や被写体の良い悪いを超えて、何か得体の知れない存在感を放つ写真というものがあるもので、光学的に見えないものまで撮ってしまっている気配を感じる場合があります。わたしは、それを「ゾワゾワした感じの写真」と呼ぶことがあります。(心霊写真のようなものではありません)

 ちょうどわたしも、こうした写真の不思議さをもっとつきつめてみたいと念じていたところ、この「叙情」という言葉とめぐり合いました。それも名古屋にしかない叙情・・・。     果たしてそんな都合のよい写真が撮れるのかどうか・・・。

 しかし、わたしが身震いしたのは、実は、写真家になろうと漠然と思い始めた原点が、この名古屋の街にあったことを思い出したからなのです。幼いころ、父に手を引かれて通ったのが、中村区にある向野跨線橋。この無数の鉄路が足下を通過する鉄橋の上から名古屋駅方面を見はるかしたとき、大都会のビル群の連なりが軍艦のように迫ってきました。しかし、畏怖するような驚きとともに、風景に圧倒される心地よさや、都会のスケールの美しさにうっとりして、父から譲られた小さなカメラで夢中になってシャッターを切ったものでした。

(『叙情都市名古屋』より/名古屋市中村区・向野跨線橋/撮影:木村一成)

 あの少年の日のめくるめく思い。無垢な気持ちで眺めていた名古屋の街に、つよい懐かしさが蘇ってきたのです。このように不意に遠い記憶を呼び起こしてくれたのが、「叙情」という言葉だったのです。「叙情」とは、何かの面影や記憶を召喚する、ものすごい力をもつ“呪文”のようなものではないか?

 光学的な作用だけでは撮りきれない名古屋の魅力も、「叙情」という切り口で眺めていけば、姿を現してくれるような気がしてなりませんでした。そこで、わたしの撮影は、向野跨線橋に立って写真家としての原点をみつめることから始まったのです。

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